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小田原

小田原と徳川:江戸幕府を支えた城下町の秘密

小田原と徳川家、その知られざる関係の真実

戦国時代の終焉を告げ、260年以上にわたる泰平の世を築いた徳川幕府。その巨大な統治機構の礎には、数々の戦略的な都市配置と思慮深い政策がありました。中でも、相模国(現在の神奈川県西部)に位置する小田原は、徳川の世において極めて重要な役割を担った都市として、その名を歴史に刻んでいます。

多くの人々にとって、小田原は難攻不落を謳われた北条氏の拠点であり、豊臣秀吉による「小田原征伐」の舞台として記憶されているかもしれません。しかし、北条氏滅亡後の小田原は、決して歴史の表舞台から姿を消したわけではありませんでした。むしろ、徳川政権下で新たな使命を帯び、江戸の西の守りとして、また東海道の要衝として、類まれな発展を遂げることになります。

本稿では、巷説や誇張されたイメージを排し、事実に基づいて「小田原と徳川家」の関係を多角的に解き明かしていきます。徳川幕府の安寧を支えた小田原城の真の戦略的価値、宿場町として繁栄を極めた経済と文化、そして今なお市内に点在する徳川の時代を物語る歴史の足跡。事実の探求を通じて、知られざる小田原の奥深い魅力に迫ります。


1. 江戸の西の守り:徳川政権下における小田原城の戦略的意義

豊臣秀吉による天下統一の後、関東に入封した徳川家康は、江戸を本拠地と定めると同時に、旧北条氏の広大な領地を再編し、信頼のおける譜代大名を巧みに配置しました。その中でも、小田原城の城主選定は、家康の深謀遠慮を示す象徴的な一手でした。

■譜代大名の配置と西国への備え 1590年、家康は腹心中の腹心である大久保忠世に4万5千石を与え、小田原城主とします。これは単なる論功行賞ではありませんでした。小田原は、天下の険と謳われた箱根の東麓に位置し、西国から江戸へ向かう東海道の入口を扼する軍事・交通の最重要拠点です。ここに譜代筆頭クラスの重臣を置くことで、いまだ豊臣恩顧の大名が多く残る西国への強力な牽制とし、江戸防衛の西の砦とする狙いがありました。

その後、大久保氏は2代忠隣の時代に改易となりますが、城主不在の時期を経て、阿部正次、そして1632年には三代将軍・家光の乳母であった春日局の子、稲葉正勝が8万5千石で入城。以後、幕末に至るまで稲葉氏が小田原藩主を世襲し、石高も最終的には10万石を超える大藩として、幕府の西の守りを固め続けました。このように、一貫して譜代の有力大名が配置されたこと自体が、小田原の戦略的重要性を物語っています。

■徳川の城としての再編と箱根関所 徳川時代の小田原城は、北条氏時代の姿から大きく変貌を遂げます。北条氏の象徴であった、城下町全体を囲む壮大な「総構(そうがまえ)」は、平和な時代の到来とともにその役割を終え、維持管理されることはありませんでした。新たな城は、三の丸の内側を主な城郭とし、より集約的で機能的な近世城郭として整備されました。

特に重要だったのが、箱根関所との一体的な管理です。箱根関所は、江戸幕府が設置した全国の関所の中でも特に重要視され、「入鉄炮に出女」を厳しく取り締まることで知られます。この関所の管理・運営は小田原藩の重要な役務であり、小田原城と箱根関所は、いわばセットで江戸の安全保障を担う一大防衛システムを形成していました。参勤交代で江戸に向かう西国大名の動向を監視し、膨大な人や物の流れを管理する情報拠点でもあったのです。

■災害からの復興と城の終焉 徳川の世を通じて、小田原城は度重なる自然災害に見舞われました。特に1703年(元禄16年)の元禄大地震では、天守閣をはじめ、櫓や門がことごとく倒壊するという甚大な被害を受けます。しかし、幕府の威信と江戸防衛の要としての役割から、天守はわずか3年後の1706年(宝永3年)に再建されました。この迅速な復興は、小田原城がいかに重視されていたかを示す証左と言えるでしょう。

こうして徳川の世の安寧を支え続けた小田原城も、明治維新を迎えると役目を終え、1870年(明治3年)に廃城。天守をはじめとする多くの建造物は解体され、その歴史に幕を下ろしました。現在の天守閣は、1960年(昭和35年)に宝永年間の再建天守の模型などを基に復興されたものであり、徳川時代の小田原の記憶を今に伝えています。


2. 宿場町の経済と文化:江戸の繁栄を支えた小田原の産業

徳川時代、小田原は軍事拠点であると同時に、東海道で最も繁栄した宿場町の一つとして、その経済と文化を大きく開花させました。幕府が整備した五街道の中でも大動脈であった東海道。その九番目の宿場である小田原は、箱根越えを控えた旅人たちで常に賑わい、江戸と上方(京・大坂)を結ぶ物流の中継地として発展しました。

■東海道随一の宿場町の賑わい 小田原宿には、大名が宿泊する本陣・脇本陣のほか、数多くの旅籠(はたご)や茶屋、商店が軒を連ねていました。参勤交代の行列、幕府の役人、商人、伊勢参りの庶民など、あらゆる階層の人々が行き交い、江戸へ向かう前の最後の休息地、あるいは箱根を越えてきた安堵の地として、活気に満ちあふれていました。この人々の往来が、小田原に莫大な富と情報をもたらしたのです。

■名産品の誕生と発展 旅人たちの需要と、江戸という巨大な消費地への供給拠点という地の利が、小田原独自の産業を育みました。

  • 蒲鉾(かまぼこ): 相模湾で獲れる豊富な魚を原料に、保存の利く蒲鉾作りが盛んになりました。江戸の食卓に上る高級品として、また旅人の携帯食としても重宝され、その品質は全国に知られるようになります。現在も「かまぼこ通り」には、江戸時代創業の老舗を含む多くの蒲鉾店が軒を連ね、その伝統技術を継承しています。
  • 干物(ひもの): 蒲鉾と同様、新鮮な魚介類を加工した干物も小田原の代表的な産物でした。特にアジの干物は、江戸の庶民の味として親しまれ、小田原の漁業と加工業を支える重要な柱となりました。
  • ういろう(透頂香): 小田原の「ういろう」は、元々は室町時代に中国から伝わった薬「透頂香(とうちんこう)」でした。北条氏の時代から小田原で製造され、徳川の世には旅人の常備薬として、また菓子としても知られるようになり、600年以上続く老舗としてその名を馳せています。
  • 小田原提灯(おだわらちょうちん): 携帯に便利なように蛇腹式に折りたためる独特の構造を持つ小田原提灯は、夜道を歩く旅人にとって必需品でした。実用性から人気を博し、小田原を代表する工芸品として定着しました。

これらの産業は、特定の「商人組合」や「漁業組合」といった近代的な組織ではなく、多くは家内工業や、幕府公認の同業者組合である「株仲間」といった形で運営され、宿場町の経済を力強く牽引していきました。小田原の商人が幕府財政そのものを支えたというのは誇張ですが、彼らの安定した経済活動が、結果として幕藩体制の維持に貢献したことは間違いありません。


3. 歴史の足跡を訪ねて:小田原に残る徳川時代ゆかりの地

小田原市内とその周辺には、徳川の時代を色濃く反映した史跡が数多く残されています。誤解されがちなスポット情報を整理し、事実に基づいた徳川ゆかりの地を厳選してご紹介します。

① 小田原城址公園 徳川時代の小田原を語る上で欠かせない中心地。復興された天守閣はもちろん、徳川時代に築かれた石垣や堀が良好な状態で残っています。城内の常盤木門SAMURAI館や、小田原城歴史見聞館では、北条時代から徳川時代への変遷を学ぶことができます。

② 石垣山一夜城歴史公園 厳密には徳川の「史跡」ではありませんが、小田原と徳川の関係が始まる画期的な場所です。1590年、豊臣秀吉が小田原城を攻める際に築いたこの陣城には、徳川家康も配下の軍勢を率いて参陣していました。眼下に小田原城を見下ろすこの場所から、家康は北条氏の時代の終わりと、自らが統治する新しい時代の到来を予感したことでしょう。

③ 小田原宿なりわい交流館 江戸時代の小田原宿の賑わいを今に伝える施設です。かつての網問屋の建物を活用しており、当時の商家の様子や、旅籠の帳場などが再現されています。徳川幕府が整備した東海道の宿場町として、小田原が果たした役割を体感できる貴重な場所です。

④ 大久寺(だいきゅうじ) 徳川家康の腹心であり、初代小田原藩主となった大久保忠世が開基した寺院です。忠世をはじめとする大久保一族の墓所があり、徳川政権初期の小田原の姿を偲ぶことができます。

⑤ 紹太寺(しょうたいじ) 17世紀半ばから幕末まで小田原を治めた稲葉氏の菩提寺。ここには、三代将軍・家光の乳母であり、絶大な権勢を誇った春日局の墓所(霊廟)も設けられています。息子の稲葉正勝が小田原藩主となった縁で建立されたもので、徳川将軍家との深い繋がりを物語る重要な史跡です。

⑥ 松原神社 古くから小田原の鎮守として信仰を集めてきた神社です。徳川家康が小田原攻めの際に戦勝を祈願し、江戸入府後にその御礼として葵の御紋が入った石燈籠を寄進したと伝えられています。真偽は伝承の域を出ませんが、徳川家との縁を示す逸話として語り継がれています。

⑦ 報徳二宮神社 江戸時代後期、現在の小田原市栢山に生まれ、疲弊した農村の復興に生涯を捧げた農政家・二宮尊徳(金次郎)を祀る神社です。尊徳は小田原藩の財政再建にも関わった後、その手腕を買われて幕臣として登用されました。神社自体の創建は明治時代ですが、徳川幕末の社会を支えた重要人物ゆかりの地として訪れる価値があります。


4. 城下町の面影と暮らし:徳川時代の息吹を感じる小田原散策

史跡を巡るだけでなく、城下町の街並みを歩くことで、徳川時代の庶民や武士の暮らしの息吹をより身近に感じることができます。

小田原駅から城址公園へ向かう道中には、「かまぼこ通り」と呼ばれる一角があります。江戸時代から続く老舗「鱗吉(うろこき)」をはじめ、多くの蒲鉾店が軒を連ね、伝統の味を守り続けています。店の前には、蒲鉾作りに欠かせない清らかな水が湧き出る井戸が残されている場所もあり、往時の風景を偲ばせます。

国道1号線沿いに佇む「ういろう」の店舗は、唐破風の屋根を持つ風格ある建物で、城下町のランドマークの一つです。併設された博物館では、薬としての「透頂香」から菓子としての「ういろう」まで、600年以上にわたる歴史を知ることができます。

また、江戸時代の武家屋敷跡地に立つ「清閑亭(せいかんてい)」も見逃せません。建物自体は明治時代に黒田長成侯爵が建てた別邸ですが、その高台からは小田原城と相模湾を一望でき、かつてこの地に屋敷を構えた武士たちも同じ景色を見ていたであろうと、歴史の連続性を感じさせてくれます。

市内には、徳川幕府が整備した旧東海道の松並木の一部も残されており、江戸時代の旅人と同じ道を歩くことができます。これらのスポットを繋いで歩けば、小田原が単なる過去の遺産の集合体ではなく、歴史の上に現代の暮らしが息づく、生きた町であることが実感できるでしょう。


5. 徳川の時代に育まれた小田原名物:その歴史と味わい

「徳川家康も絶賛した」という逸話が、小田原の名産品にはしばしば付いて回ります。しかし、これらの話の多くは後世に生まれた伝説や、販売促進のための物語である可能性が高く、一次史料で裏付けることは困難です。

家康個人の嗜好を追い求めるよりも、なぜ徳川の時代に小田原でこれらの食文化が花開いたのか、その歴史的背景を探る方がより本質的です。 その理由は、①地理的要因②時代的要因に集約されます。

  • 地理的要因: 目の前に広がる相模湾は豊かな漁場であり、新鮮な魚介類が豊富に水揚げされました。また、背後にそびえる箱根の山系は、清らかで良質な水を小田原にもたらし、蒲鉾や日本酒などの製造に適した環境を生み出しました。温暖な気候は、梅や柑橘類の栽培にも適していました。
  • 時代的要因: 徳川幕府による東海道の整備は、小田原に空前の人流と物流をもたらしました。箱根越えを前にした旅人たちは、保存性が高く栄養のある蒲鉾や梅干しを求めました。そして、江戸という巨大消費地がすぐ近くにあったことで、小田原の産品は商品として洗練され、一大産業へと成長を遂げたのです。

つまり、小田原の名産品は、家康という一人の権力者の好みによって生まれたのではなく、徳川幕府が築いた泰平の世と、それによって整備された交通網、そして江戸を中心とする経済圏の確立という、より大きな時代のうねりの中で育まれた文化遺産なのです。

小田原を訪れた際には、ぜひこれらの名物を味わってみてください。蒲鉾の弾力、梅干しの滋味、干物の凝縮された旨味。その一口一口には、徳川の時代にこの地で生きた人々の知恵と営みが溶け込んでいます。歴史的背景を知ることで、その味わいはさらに深く、豊かなものになることでしょう。小田原の食文化は、徳川の時代から現代へ、そして未来へと受け継がれていく、貴重な宝なのです。

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